6月24日は 年金者組合滋賀県本部の「春のレクリェーション 湖族の郷・堅田散策」に参加しました
堅田は びわ湖で対岸との距離が一番狭まったところに架かる「琵琶湖大橋」の西詰めに位置する町です
近江八景の一つ「堅田の落雁」の「浮御堂」がある景勝地として知られています
同じ県内に住みながら 堅田についての私の知識はこれくらいでしか無かったのです
湖族という言葉は知っていても それがどういう人なのかも詳しくは知りませんでした
今回訪ねたことで 中世以降壮大なドラマを繰り広げ栄えてきた深い歴史を持つ町であることを知りました
堅田の町の概要については 街歩きの前に立ち寄った「湖族の郷資料館」で頂いたパンフレットを引用させて頂きます
「湖族の郷・堅田」
比叡山を源とする天神川、真野川、御呂渡川の沖積地に誕生した湖族の郷・堅田。
古代、衣川を中心とする背後の丘陵地に、高度な文明がいち早く芽吹き、壮大な歴史の幕が開かれました。
平安時代には、琵琶湖の最狭部という絶好の地に形成された堅田に、京都加茂御祖社(下鴨神社)の御厨が置かれ、また比叡山延暦寺の荘園となりました。
以来、恵まれた地形と両社寺の勢力を背景に、中世には琵琶湖の水運・漁業の権益を一手に掌握して、湖上に圧倒的な力を誇りました。当時、堅田衆と呼ばれた人々は、自らの手で郷づくりを行い、「堅田千軒」といわれる、近江最大の自治都市を築きました。16世紀半ば、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは彼の故郷への手紙の中で、当時の堅田のことを、泉州堺と並び称し、「はなはだ富裕な堅田」と述べています。
近世には、水運の勢いはしだいに大津へと移っていきましたが、漁業の隆盛をきわめました。「諸浦の親郷」と呼ばれた時代です。また、豊かで美しい風光に恵まれた郷には芭蕉はじめ、幾多の文人墨客が往来し、文化の華を咲かせました。(以下省略)
堅田衆のことを「湖族」といい 堅田衆は地侍である「殿原衆(とのばらしゅう)」と漁農商工業者の「全人衆(まろうどしゅう)」という身分があったそうです
街歩きで訪ねた場所は・・・
「居初家・天然図画亭(いそめけ・てんねんずえてい)」
詳しくはこちら「滋賀文化のススメ」H.Pをご覧ください
「祥瑞寺」
トンチで有名な「一休さん」が 22歳から34歳までここで修行し「一休」の名を授かったというお寺
ここを訪れた芭蕉の「朝茶飲む 僧静かなり 菊の花」の句碑がありました
「本福寺」
三代目住職法住の頃 京都の本願寺を追われた蓮如上人が身を寄せたお寺で 蓮如上人はここを拠点に布教活動し 特に全人衆の支持を受け本願寺再興の願いを果たしたとのこと
十一代住職の明式は 芭蕉の高弟で俳号が「千那」ということで 本福寺は「千那寺」とも呼ばれたそうです
芭蕉はここを3度訪れたそうで 境内には句碑が2基
「からさきの 松は花より おぼろにて」「病雁の 夜寒に落ちて 旅寝かな」
また境内には 四方以上?に枝を伸した松の木があり その立派さには驚かされました
今回の街歩きで訪ねたのはごく限られた範囲だったのですが 資料によると 湖畔の南北約2キロの地域には由緒ある社寺が6社10ケ寺が現存し 句碑や文学碑も数多く建っているようです
改めてこれらを訪ね歩くのも ウォーキングの楽しみになりそうです